Each Tempo

―それぞれのテンポで

その鼻、へし折って差し上げます―毒親編

他人の好意や行為を喰い尽くす大人である雛さま*1を親に持つ、神経発達症ぎみ*2な社会人の半生を「実家と自称記」というカテゴリに投稿しています。ひとつ前のブログで、雛さまな母から手紙をもらったシミュレーションをしてみました。母からこんなことを言ってほしいのかもしれない……とパートナーに手紙の概要を聞いてもらった時に出てきたのが、その鼻をへし折ってやる!!でした(笑)。今でこそ笑い話にできるメンタリティなのだなと、自分に余裕が生まれていることに気づきました。

母への恨みや憎しみといったものは、この十数年で随分と和らいでいきました。自分には子供はいませんが、神経発達症*3の当事者に関わる機会が増えたことや自身の生きづらさを通して、「親も当時、精いっぱいだったのだ」と思えるようになりました。しかし、自分も親が子育てしていた年齢に差し掛かり感じるのです……人としておかしなことをしてらっしゃいません???と(笑)。

母は天上天下唯我独尊といった言葉がお似合いの、世間的にみるとかなりイタイ雛さまです。自分が幼いころ、母が「さすがは自分の子供だ」とか「うちの家系の特徴がよくあらわれている」とか、「私たちの家系は特別なのだ」という自己愛丸出しの、かなり恥ずかしいことをよく口にしていた記憶があります。母以外にも、母の家系はみなこのような口ぶりで、父に似ている特性については、罵倒したり見下すような態度があからさまでした。

そんな母に対して、自分がもっとも憤っていることは「他人に迷惑をかけてはいけない」という信条を押し付けられたことです。この信条によって生きづらさの海につきおとされたようなものです。他人に迷惑をかけてはいけないという呪いによって……

  • 身内に依存することになる
  • 他人に頼みごとができない
  • 自分にも他人にも完璧を求めてしまう
  • 他人に迷惑をかけると罪悪感に苛まれる
  • 他人から迷惑をかけられることに対して不寛容になる

自分も20代までは、他人に不寛容なイタイ勘違い野郎になり果てていました。「他人に迷惑をかけない」という言葉を聞くと「互いに人の妨げをなさずして……」という、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の序文が思い出されます。社会の文化や背景を大切にすること、そして個人に対しても同じで、他人への配慮や心配りを尽くした上で、個人の自由があるという風に感じます。しかし、この言葉を自分都合で使うのが雛さまたちなのかもしれません。身内なら迷惑をかけてもいいルールを発動。他人に頼るのは恥で貸しを作ることになるという、ネガティブな捉え方しかできないのでしょう。そして、頼れるのは身内だけという環境を作り上げるのです。

母や母の家系は似たような信条を持っていたと思います。そのため、家族や親族同士での結びつきが非常に強く、それ以外をほとんど寄せ付けませんでした。小さいころに父や母の友人が訪ねてきて、家に招き入れたような記憶はありません。子供らの友人を招くことも許されていませんでした。友人を招いたのは、小学校時代は片手の数、中学・高校時代は……ゼロ?かもしれません。

小学生の時、たった1度だけ友人を招いた自分の誕生日会を開いてくれました。母は招いた子供たちへのサプライズを用意して場が盛り上がりました。しかし、主役である自分以上に目立って母が得意げにしていたこと、友人が帰ったあとにパーティーを開催した部屋、友人たちが使った場所をくまなく掃除していたことをよく覚えています。まるで雑菌扱いです。当時は、誕生日会を開いてもらえない境遇だったので、開いてもらえた嬉しさで違和感がかき消されてしまったのだと思います。

閑話休題

そんな、他人に対して不寛容な母がもっとも迷惑をかけているのは誰かというと、ほかでもない、罵倒したり見下している対象である父でしょう。父は、天然でのんびりしていてつかみどころがない人ですが、母の厄介さに一番向き合ってきた人です。(もしかすると、真っ先にあきらめたのも父かもしれません。)手紙を書いているときに一番情が揺らいだのは、ずっとそばにいる父のことを思い出した時でした。自分に報いるよりも、父に報いて2人で人生を歩んでほしいと、願っているのかもしれません。

手紙を読み直すと、自分は母に謝罪を求めてはいないのだなと気づきました。そして、「あの頃のように過ごしたい」といったような欲や期待もありません。残念ではありますが、母との楽しい思い出や求めるものが自分にはないのです。安心や穏やかさ、懐かしさがあれば自然と帰りたくなるものだと思います。幼い頃の実家のルールのおかげで、地元に友人もいないので、いよいよ帰る理由が見つからないわけです。では、母にどうなって欲しいかと言えば……、これ以上、そばにいる父の気力を吸いつくすな、自分と他人の境界線を引けるようになれ、自分のことは自分で面倒見ろ、父に感謝しろ、と思ってますね。とてもわかりやすい。昔の自分に向けた言葉のようでもあります。そして、謝罪するより難易度が高いことを求めていますね(笑)。このように思うのも、母の完璧主義な性格が自分に一部引き継がれているからなのでしょう。子供や他人に理想を求めるなら、諭吉先生の言葉の意味を履き違えずに自分を律しろと。言葉と態度に一貫性をもてと。すべて、母が家族や周囲に求めていた事です。それが自身にはね返ってくるのは、まさに自業自得、因果応報ですね。

他人に不寛容なくせに、他人から搾取する母のエピソードは枚挙に暇がありません。さて、そんな母が「身近な人を尊敬する・敬う」「失敗したことを謝る」「他人に感謝する」こういった姿は見た記憶がありません。見てきた姿は、対極といっても過言ではありません。「他人に迷惑をかけないのが信条?」沢山の人に助けられてきたのに、ちゃんちゃらおかしいですね。諭吉先生に変わって『学問のすゝめ』の背表紙で、その鼻、へし折って差し上げます。

 

 

 

 

 

*1:精神科医Tommy氏の造語「雛人間」を参考にした造語。誰かに餌を与え続けてもらわないと生きていけない人のこと。「毒親」とほぼ同義。

*2:所謂、発達障害グレーゾーン

*3:所謂、発達障害のこと